知ってましたか?パラリンピックってすごい!
こんにちは。フクダミホです。
今日から、リオパラリンピックが開幕しましたね!
開幕前から、走り幅跳びでオリンピック選手を超える記録を出す義足の選手が現れていたり、
健常者と障害者という境界線が外れ、人間の無限の可能性が爆発しそうな予感がします。
今日は、パラリンピック旗に込められた思いについて、「おぉ」と思ったことがあったので書いてみようと思います。
オリンピックの5輪マークとは違う、赤・青・緑の3本の波のようなパラリンピックのシンボルマーク。何か意味があるんだろうなとは思っていたのですが、とても素敵な意思がこめられていました。
このマークには「スリー・アギトス」という名前がついているそうです。
ラテン語で「私は動き」という意味。
諦めない強い意思を表している。
※詳細はこちら
「私は動き」
というシンボルに込められた意思。ニュースの解説者によってその意思が語られた時、
私には、開幕式でパラリンピック旗を運ぶ、二人三脚の親子の姿が、その動きの意思そのものに見えました。
一人では動くことができなくても、二人の力を合わせれば動くことができる。
2対が1体となって動いていました。
そしてさらに思ったこと。
障害をもつということは、人間の体の機能の一部を欠陥している、不完全という観点でとらえられることがまだ一般的にメジャーに感じるけれど
そもそも「人間というものは、いったい何をもって完全、健常といえるのか。」
という問題提起が、まず必要なのではないでしょうか。
それはさらに元をたどれば
「人間というものの定義を、肉体の形の範囲を基準にしていること」
に対しての問題提起にもつながることだと思います。
なぜ「人間」というものの定義が、肉体のカタチの範囲にされているのか?
それはあくまでも
「目にみえること」、「5感覚で認識できる範囲であること」
に限定された
科学的な側面の一つの基準でしかありません。
けれど、本来の人間はそれだけが人間なのでしょうか?
人間の心とは何なのでしょうか?
意思とは何なのでしょうか?
力はどこから生まれるのでしょうか?
「私は動きそのもの」であるところ
エネルギーを生み出す
その根源の力
目に見えない範囲も含めた、
5感覚脳で認識できる範囲を超えた
人間精神の可能性
そこに、本来の人間というものの定義の基準を上げる必要があるのではないでしょうか。
どんな存在でも、一人ひとりが、真の尊厳そのものであること。
その人間に対するイメージの変化から生まれる、美しい関係性、
スポーツの祭典で終わらずに、心がひとつにつながり、個性の花が開く、歴史最高に美しい尊厳オリンピックを、2020年の東京で、つくっていきたい!
そこから新しい文化文明をつくりたい!
人類歴史で育まれてきた意志、オリンピックに込められた意志。
そして今、私たちは何を変化し、どんな未来をつくっていきたいのでしょうか?
リオパラリンピックの開幕式を通じて、改めて決意と気づきをもらいました。
今日はかなり、哲学的になってしまいましたが・・・
背景を知ること、形になる前の意志を知ることは
深い気づきと感動につながってしまうものですね!
それでは
今週も、世界中のみんなに、たくさんの感動が訪れますように!!
2016年9月8日(木)